秋葉様

昨夜はせっかく鍼を打ってもらったのだから、早寝すればよかったのに、結局だらだらと遅くまで起きていた。それでも、いつもより寝覚めがすっきりしているのは、やはり鍼の効果だろうか。

コンビニに朝飯を買いに出た。

先日から解体していた建物の跡がすっかり更地になっている。

この建物の一角にあったゴミ集積所が、もうすぐ使えなくなるらしい。これからどこにゴミを出せばいいのか、よく分からない。今度からゴミはここに置きなさい、とはっきりした指示を出してくれればいいのに。

昼間抜け出す。

どこかの家の梅の花がかぐわしい。

昼は二階の食堂の焼魚弁当。魚は鯖。魚の種類はその日の仕入れによって変わるらしい。

夜の散歩に。桜橋を渡って、いつもの一葉桜・小松橋通りから一本浅草寄りの路地を歩いてみた。

金美館通りを左折して左衛門橋通りに入った。このあたりの通りの名前はどこもいわくありげである。

今日は秋葉神社まで行ってみようと思う。近所の向島にも同名の神社があるが、この台東区の秋葉神社は、もとは今の秋葉原駅の近くにあって、そもそも秋葉原という地名はこの社名から来ていると、何かで読んだことがある。 

ところで、落語の「牛ほめ」の中に、柱の節穴に秋葉様のお札を貼ると穴が隠れて火の用心になる、というくだりがあるが、この秋葉様というのは、どこの神社なのだろうと思っていた。

台東区の秋葉神社が、地名の由来になるくらい由緒のある神社なら、落語の中の秋葉様と何か関係があるかと知れない、と思って出かけた。

秋葉神社に着いた。神社のほうでも秋葉原の語源というのを売りにしているようだ。

鳥居の脇の由緒書きを読むと、明治初年に東京に火災が頻発したのがきっかけで創建されたとある。え、そんなに新しいの?

ということは、秋葉原という地名も明治以降のものなのか。

どうやら落語の中の秋葉様は、この秋葉神社ではなさそうだ。

裏手から神社を出て、浅草方向に路地を歩いた。

材木が積んである。

やはり銭湯だった。惹かれるが今夜のところは失礼。

ずんずん歩くとかっぱ橋通りに出た。

言問通りから千束通りに入って、いつもの銭湯まで戻ってきた。

銭湯の看板の前で、サウナハットを被った三人組が記念写真を撮っている。

好ましからざる連中だな、という目をして入った。自分がまるで近所の常連客のような気になって彼らを見ていることが、われながら可笑しい。私だって、この銭湯に通うようになって、まだ一年も経っていないのに。本物の近所の常連客が見れば、私も彼らと同類だろう。

サウナー気取りが帰った後の水風呂をゆったりと楽しんだ。14,693歩。

さて、帰宅してから、秋葉様のことが気になって少し調べた。

手許の矢野誠一編の『落語手帖』を開くと、「牛ほめ」の項目に「秋葉さまのお札は、防火の神様といわれる秋葉大権現のもの。(略)江戸は隅田川沿岸の多田薬師堂隣と亀戸にあった」と書かれている。なんだ、億劫がらずに先に読んでおけばよかった。

多田薬師堂は南本所番場町、今の東駒形にあったようだ。が、ネットで見られる江戸切絵図を見ても、多田薬師の隣にそれらしい寺社は見当たらない。私が見落としているだけかな。ちなみに、多田薬師こと東江寺は関東大震災で焼かれて葛飾区に移ったらしいから、本所に応時の名残を探すのも期待薄そうである(が、今度行ってみよう)。

そして亀戸。どうもはっきりしないのだが、ネット情報と総合すると、本書で亀戸と書かれているのが、向島のほうの秋葉神社のことらしい。

しかし、向島の秋葉神社の由緒書きを見ても、亀戸から現在地に移ってきたという記述はない。亀戸と向島は、遠くはないけど、近くもない。場所を混同するかなあ。それとも、亀戸という地名の指す範囲が今と違っていたのか。

かつてはこのあたりを請地と言ったという。請地の秋葉神社は、現在よりずっと広い社地を有して、多くの参拝客を集めて賑わっていたらしい。今の静かな佇まいからは、にわかに信じがたい。

落語の中の秋葉様が、近所の秋葉神社だったかも知れないと思うと、去年の祭礼の時にいただいてきた火伏せのお札が、ぐっと有難味を増す。