図式と都市

朝は駅そばで軽く済ませたので、昼はしっかりしたものが食べたい。外に出たが、お盆休みが続いているのか、閉まっている店が多い。暑い中歩き回って、滅多に行かないそば屋でカツ丼を頼んだ(丼の下が切れているのは写真を撮る前にひと切れ食べてしまったから)。

アートトレイスギャラリーに。「削除された図式」展を再訪。展示の写真を撮らせてもらった。

本展が参照している『明日の田園都市』は都市計画運動の古典ということだけど、改訂の際に著者自身によって削除された章があるのだとか。仮に、その削除に著者の政治的な配慮が働いているとして、書籍の改訂は実現した都市にどのような影響を与えたのだろうかと思う。こんなふうに、図式と都市の照応関係を考えてみるのは面白い。

イデオロギーの交替によって建築の用途や形が改変される例はしばしば目にする(最近の例だと、イスタンブールのアヤソフィア)。そんな改変が都市のレベルでも起こるのだとすれば、例えば本展で取り上げられている長春(旧新京)では、旧満洲国から中華人民共和国の成立、さらに改革開放経済を経て、当初の都市計画はどのように改変されたのか、あるいはされなかったのか。またそれは実現した都市や建築にどのように作用したのか。そしてここ東京ではどうか。

先年の展覧会「インポッシブル・アーキテクチャー」を思い出しつつ、どのようにして建築が不可能になるのかという点で、多くの場合は物理的な、あるいは経済的な理由が語られるのだろうけど、イデオロギー的な不可能性というのも同時に存在しているように思う。都市のレベルでもしかり。

余談だけど、実現したほうの新国立競技場も、もしこのまま当初の目的で使用されなくなるとすれば、ある種の不可能性を帯びた建築ということになるのではないか。

一時よりも暗くなるのが早くなった気がする。錦糸町までぶらぶら歩いていたら、途中で銭湯を見つけたので、入っていくことにした。

お店の人と他のお客さんとの話を漏れ聞くと、常連さんがしっかり付いている銭湯という感じがした。水風呂が小さくてぬるいので、私的にはそう何度も来たいとは思わないけど、地元の人に親しまれているなら、それが一番だと思う。

銭湯に寄ってきたので、帰宅してから出直すのはよした。9,687歩。