具有

就寝前に空き缶を玄関前に出した。二度寝して目が覚めたら8時20分。やはり昨夜のうちに出しておいてよかったということになる。洗濯二回。

正午から錦糸町で所用。だらだらしていたら遅くなったので、久し振りに自転車で出掛ける。

一旦帰宅。スーパーに寄って、昼飯と週刊文春を買った。「川柳のらりくらり」のページを開くと、確かに特選は兵庫県の富谷竜作とある。つまり桂吉弥師。かねて吉弥師は本名で本欄に投句を続けていて、ついに初めて特選に選ばれた由。選者の柳家喬太郎師も編集者も投句者の正体には気づかなかったということか。

飯を食ったら眠くなってきた。歩いて墨堤に。

桜が満開になってから、明るいうちにこのあたりに来るのは今年初めてだが、やはり昼間は人が出ている。とはいえ、例年と違って町会の模擬店はないし、桜の下で飲み食いしている集団も見当たらない。皆、桜の前を歩いて行き過ぎるばかりである。これはこれで、悪くない風景だと思う。

桜橋を渡って、山谷掘公園から一葉桜・小松橋通りに入った。八重の一葉桜が見事である。ここまで来れば花見客の姿はない。

思い立って、いつもの銭湯に行くことにした。まだ開店して間もない時間なのに、もうずいぶん客が入っている。

湯上がり、一葉桜に誘われて吉原弁財天のほうまで足を伸ばして、弁財天向かいの喫茶店に入った。今シーズン初のアイスコーヒーで水分補給。

吉原弁財天の境内には、吉原についての新聞記事や家田荘子のインタビュー記事が貼ってあるのだが、その中にこの喫茶店に触れた記事もある。それによると、以前はこの店は情報喫茶だったらしい。雰囲気が普通の喫茶店とはどこか違うと感じたのは、そういうことだったのかと思った。もっとも私は情報喫茶を利用したことはないけれど。

この店のママのことは前にも書いたが、歌舞伎や落語に通じた粋な人で、国立演芸場2月恒例の金原亭馬生師の鹿芝居を当方が見に行くようになったのは、以前この店を訪れた時に、話好きのママに勧められたから。別の意味で情報喫茶と言えなくもない。

当方の顔は覚えられていないようだが、それはそれで気が楽である。テレビの相撲中継を見ているうちに、ママのお孫さんなのか、小さい子が二、三人店に入ってきたのをしおに、失礼することにした。お勘定に千円札を出したら、男の子がママに届けて、お釣りを持ってきてくれた。

浅草を縦断して蔵前までぶらぶらと歩いた。大江戸線で森下へ。開座のアトリエ公演に。

黄色のオブジェが置かれた室内に黄色の衣装を纏った踊り手が現れると、まるでこの部屋がひとつのキャンバスで、そこに黄色の絵具が散らされたと見える。それも、画家が絵筆を揮って画布に色をつけているのではなく、画布の上で色自体がうごめいているようである。画家はむしろ絵具に翻弄される。

コロナ以降、ウイルスは生物か非生物か、といった話を聞くようになったが、今私の目の前でうごめいている黄色についても、同じようなことが言える。この黄色は生命を持っているのか、それとも生命を持っていないのか。あるいはそのような問いは意味をなさないのか。つまり、生命を持ちながら、同時に生命を持たない物質でもあるという存在。

両性具有という存在があるが、踊り手は踊ることによって、生命性と物質性を具有するのかと思った。

森下から夜道を一時間程歩いて帰宅。途中で日付が変わった。15,133歩。