タイムマシン

いつか京都のどこかのお寺で見たような鮮烈な紅葉に浸りたいと思った。先週川村記念美術館の庭園でもいくらか紅葉は見たけれど、あれでは物足りない。

もうずいぶん前の記憶だけど、小石川植物園で見た紅葉がきれいだったような気がする。そんなわけで、紅葉を見に向島から歩いて小石川までやってきた次第。

結果を言うと、小石川植物園では期待していたようなきれいな紅葉は見られなかった。モミジの木は思っていたほど多くなかったし、訪れた時期も多少遅かったようだ。そうなると、記憶の片隅に残っていた紅葉は、どこか別の場所と勘違いしていたのだろうか。

残念ながら、視界を覆う程の鮮烈な紅葉に浸ることはできなかったけれど、晩秋の気配は堪能した。

小石川といえば、大学時代に4年間を過ごした学生寮が小石川三丁目にあって、植物園からもそう遠くないはずである。はず、というのは、若い頃の私は近所を歩いて草木を愛でるような趣味がなかったので、大学時代に小石川植物園に行ったことはなかった。もったいないことだと思う。もし、当時の私が小石川近辺の文物にもっと興味を持っていれば、今に至る人生も少し違っていたのではないかと思う。

そこで、小石川植物園から、その学生寮まで歩いてみることにした。退寮してから訪れるのは初めてだと思う。なんとかたどり着いたが、当時にしてすでにおんぼろだった寮の建物は、完全に建て替わっていたし、周りの家並みを見ても特に思い出すものはない。辛うじて、坂の多い地形にかすかな記憶が残っていた程度。

伝通院はさすがに同じ場所にあったが、当時はほとんど境内に入ったことがなかったので、何か別のお寺を見るようである。こんな立派な門はなかったと思うし、もっと薄暗い印象があった。

ただ、伝通院の門前にある、日本指圧専門学校の建物は昔のまま残っていた。満面の笑みで両親指を突き出す浪越徳治郎の銅像からは、「指圧の心は母心」という声が聞こえてきそうであった。

夕方錦糸町で所用があったので、伝通院前から都バスに乗った。春日通りを本郷から湯島、上野広小路と進むバスの経路は、思えば先日金翁さんで聞いた「ねぎまの殿様」の殿様が、向島に雪見に向かう時の経路と同じである。もっとも、噺の殿様は上野広小路の煮売屋の屋台でねぎまで一杯やっていい気分になって、結局向島には行かなかったけど。

うとうとしているうちに錦糸町が近い。太平三丁目のバス停で降りた。大学時代の記憶を辿り、江戸時代に思いを馳せた後で、いきなりオリナスが目の前に現れると、頭がくらくらするようである。まるでタイムマシンに乗って錦糸町に戻ってきたようだ。

所用の後は、財布を忘れてお金もないのでまっすぐ帰宅。ずいぶん歩いてくたびれた。27,030歩。

散歩

空き缶を出して洗濯二回。9時半過ぎに家を出て、薬を飲むのを忘れたのに気づいて一旦引き返す。

散歩に。まずはいつものルートに入る。秋の気配が濃い。

隅田川を桜橋で渡って待乳山聖天あたり。ここにこんな喫茶店があったのか、という店にいくつか出くわす。前にGoogleマップを参考に喫茶店を探したことがあったけど、どれも気がつかなかった。何も考えずに歩くほうが発見がある。時間のせいもあるだろう。その時はもう日が暮れていたから。昼間だけ営業する喫茶店は多い。週末しか開けないという店もあった。その逆もあることだろう。

そんな喫茶店のひとつに入ってみようかと思って、カバンの中をまさぐったのだが、財布がない。平日用のカバンから移すのを忘れたか。幸いパスモとクイックペイは持って出たので、チェーン店での買い物には困らないのだが、この手の個人店は電子マネーが使えないことも多いだろう。仕方がない。

千束を越えて金美館通りに入る。このあたりもまだ馴染みの散歩道。

神社の境内のいちょうが美しい。

鶯谷を歩いていて、古そうな屋敷が残っているなと路地の奥に入っていったら、陸奥宗光の旧邸とか。

こんな歓楽街に神社の標柱が建っている。この中に神社があるのだろうか。

入ってみたら、なかなか立派な神社があった。由緒書きを見ると、金杉村の氏神様とある。散歩していて金杉通りという通りがあったけれど、そうか、村の名前から取った名前なのか。どうやら古くはこのあたり一帯を金杉村と言ったらしい。

鶯谷駅前のドトールで休憩後、言問通りを山手線の内側に入る。このあたりは上野側から芸大美術館の脇を過ぎて来ることはあるけれど、鶯谷から歩いて来るのは初めて。

スカイザバスハウスで宮島達男の展示をしているというので覗いていこうと思っていたが、まだ営業時間前だったので、またの機会に。

さんさき坂の途中にある全生庵に寄った。落語好きには言わずもがなの三遊亭円朝の墓所のある寺。以前ここで派手に円朝まつりをやっていた時に訪れたことがあるが、あの混雑が幻のように人影はない。

円朝の墓石に記された「三遊亭円朝無舌居士」の文字は山岡鉄舟の筆によるものという。しかし鉄舟の没年は明治21年で円朝は明治33年。ということは円朝は自分が没する10年以上も前に自分の戒名を決めて、生前の鉄舟に揮毫を依頼していたということになるのだろうか。

千駄木の駅を過ぎて団子坂を上った。森鴎外記念館の立派な建物を横目に歩くと、フリュウギャラリーがあった。前はもっと坂の下のほうにあったように思うけれど、記憶違いだろうか。

もう10年以上前になるが、この画廊主とは一度話したことがある。確かギャラリーをこれから始めようという頃か、始めてすぐという頃だった。アサヒ・アートスクエアでのAAF学校の席だったと思う。今ではどんな方だったか、半分思い出せないけれど。もっともマスクをしていれば余計に顔は分からないだろう。

この通りには、大観音通りという名前があるようだ。してみると、どこかに大観音があるのだろうか。

ちょっと不思議な形の建物に惹かれて立ち寄ったら、そこが大観音だった。

境内では母親が幼子を遊ばせていた。休日らしいいい眺めだった。

この界隈はお寺が多い。

白山上の交差点まで来た。東洋大学が近い。この坂を下って白山下に、そして北陸銀行のあるビルを横目に、白山通りを渡って、蓮華寺坂に入る。

とりあえずの目的地(散歩に目的地という言葉は相応しくないだろうが)、小石川植物園に着いた。途中で寄り道したり休憩したりしていたら、家から3時間余りもかかってしまった。